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03.引越し先はフランス風 [蒼ざめた微笑]

トリコロールに燃えて



 竹中冬子が前に住んでいたアパートは私の事務所の裏の方にあった。歩いて、五、六分という所だ。

 古い一軒屋が建ち並んでいる中に、同じく古い木造二階建てのクリーム色のペンキの剥げかけた、そのアパートはあった。門の所に大きく『虞美人荘(ぐびじんそう)』と書いてある。家主はユーモアと教養のある人間らしい。

 裕子は途方にくれて、この虞美人荘から去る時、私の事務所の看板を見た。薄いグリーンの地に青く洒落た字で『日向探偵事務所』と書いてある。近くで見ると『日向』という所を後から貼り付けた事が分かる。以前は五月という人が事務所の所有者だったそうだが、私は会った事もない。私は二代目の所有者から譲られた。

 裕子にとって、その事務所に入ろうか入るまいか、それが問題だったそうだ。もし、そこに顔に傷のある、とぼけた目をした人相の悪い男がいたら、間違いましたと言って出て来ようと決心して、恐る恐るドアをノックしたらしい。ところが、そこにいたのは優しそうで頼りがいのあるお兄さんだったというわけだ。いや、裕子から見たら、おじさんだったのかもしれない。

 家主の家は虞美人荘の隣にあった。古い二階建ての家だが良く手入れがしてあった。狭い庭には、いくつもの盆栽が冬の弱い西日を浴びていた。表札には『甲野』と書いてあり、役に立たないお守りのような札が二つ貼ってあった。呼び鈴は壊れていた。玄関を開けて声を掛けた。

 人のよさそうな太った中年女がエプロンで手を拭き拭き、返事をしながら現れた。裕子の顔を見て、またか、という顔をして、あまり手入れのしていない髪を撫で上げた。

 私は聞いてみた。

「すみませんけど、一月程前に出て行った、竹中冬子さんを御存じですね。今、どこにいるのか分かりませんか?」

 中年女は私と裕子を見比べてから、私の方を向いて答えた。

「ええ、さっきも話した通り、あの娘は急に出て行ったんですよ。何も言わないで‥‥‥」

 大家はチラッと裕子を見た。それから、汚れたエプロンのしわを伸ばした。

「あの娘(こ)は絵画きさんでしょう。部屋を汚したって、あたしはあまり文句だって言わなかったんですよ。そりゃあ、あたしだって大家ですから、絵の具だらけにされたら困るので、一回や二回、注意もしたけど、あたしは別に、あの娘を追い出したわけじゃないんですよ。あの娘が勝手に出て行ったのよ。それも、前の日になって急に言い出してね。困るのよね、そういう事されると」

 大家は、さも困ったような顔付きをして見せたが、実際、困っている様には見えなかった。彼女の話し振りから見て、冬子とは何度もやり合っていたらしい。

「竹中さんとは仲がよかったみたいですね?」

「それ程でもないのよ。あたしたち、子供がいないもんだから、みんな、子供みたいに思ってるんですよ」

 大家は楽しそうに笑った。

「彼女が引っ越したのは、いつでした?」

「一月位前ですよ。丁度、先月の今頃じゃないかしら」

「彼女の友達とか、よく来た人なんか、御存じありませんか?」

「さあ‥‥‥友達は来てましたよ。芸術家だか何だか知らないけど、変な格好をした人たちがよく来てましたよ。でも、名前までは知りませんよ。あたしだって、一々、そんな事まで干渉しませんからね」

 私は裕子を見た。彼女は下駄箱の上にあるサボテンを見ていた。何となく、そのサボテンは隣に立っている人間に似ていた。

「彼女のいた部屋は、まだ、空いてるんですか?」

「ええ、空いてますよ」

「見せてもらえますか?」

「何も残ってやしませんよ。綺麗にお掃除をして、壁も張り替えましたからね。丸一日つぶれましたよ」

 大家はしぶしぶと、冬子のいた部屋を見せてくれた。勿論、冬子の残していった物は何もなかった。六畳一間に狭い台所だけだったが、綺麗だし、日当たりもよかった。

 大家は、冬子が汚した壁について詳しく説明してくれた。裕子は途方にくれたように、窓の外をボンヤリと眺めていた。

「彼女、引っ越して行く時、一人でしたか?」

「とんでもない。友達が大勢来てましたよ。もう、大騒ぎ。昼間っから、お酒飲んでワイワイ騒いで‥‥‥せいせいしたわ、うるさいのがいなくなって。あら、御免なさい。でも、このアパートの人たちは、みんな、静かなんですよ。ほとんど、学生さんなんですけど、みんな、真面目に勉強してます‥‥‥竹中さんはいい人なんだけど、ちょっと変わってるんですよ。普通の人とは、ちょっと、ずれてるのね。昼も夜も関係なし。夜中に大声で歌を歌ったり、昼間っから酔っ払ってたり、かと思うと、あまり静かすぎるので、ちょっと部屋を覗いてみると、青白い顔をして、服を絵の具だらけにして、ボンヤリ、描きかけの絵を見てるのよ。『どうしたの?』って聞くと、『何でもない』って答えるけど、まるで、病人よ。ご飯も食べないで、夜も寝ないで絵を描いてたんですって‥‥‥まったく、変わった娘ですよ。あたしも、あの娘と随分、喧嘩したけど、なぜか、憎めないのね‥‥‥ほんとは、みんな、淋しがってるわ。あの娘がいた時は、みんな、うるさいから早く、追い出せなんて言ってたくせに‥‥‥そうだわ、千葉さんなら知ってるかもしれない」

「千葉さん?」

「ええ、七号室にいるんです」

「学生さんですか?」

「いい娘ですよ。竹中さんとは違う大学ですけど、二人でよく銭湯(せんとう)に行くのを見ました。彼女はいつも、竹中さんの事をかばってやってたわ。そうよ、千葉さんなら知ってるかもしれない」

 二階の七号室に千葉さんはいた。ほっそりした、おとなしそうな人だった。彼女は竹中冬子の住所を知っていた。

「お姉ちゃんは、どうして、急に引っ越したりしたんでしょう。御存じありませんか?」

 裕子が千葉さんに聞いた。

「ええ」と千葉さんは細い静かな声で言った。そして、しばらく、下唇を噛んで何かを考えていたが、裕子の顔を見て、ゆっくりと話し始めた。

「本当のお父さんが見つかったんです。そして、その人が新しいお部屋を借りてくれたので、彼女、ここから出て行ったんです」

「本当のお父さん‥‥‥」

 裕子は眉を寄せて、目を大きくして、独り言のように呟いた。

「ええ、彼女、とても喜んでました‥‥‥本当は冬子さん、とても悩んでたんです。でも‥‥‥いいえ、彼女は喜んで、お父さんの所に行きました。是非、遊びに来てくれって言われてるんですけど、私、まだ、行ってないんです。冬子さんに会ったら、よろしく、お伝え下さい」

 事務所に戻り、おんぼろのジープに裕子を乗せて、彼女の姉の所に向かった。ジープは快適に走った。しかし、乗っているのは快適とは言えなかった。幌(ほろ)はかぶせてあるが、隙間風がカミソリのように冷たく刺さった。

 裕子は何かを考えているらしく、寒さも気にせずに黙り込んでいた。何か深い事情がありそうだが、私には関係ない。私は何も考えずに黙っていた。

 千葉さんが教えてくれた住所には、まだ、できたばかりの新しいマンションが建っていた。三階建てで、フランス風とでも言いたげに白と青と赤で塗られていた。

 冬子の部屋は三階の一番奥の非常出口と書いてあるドアの隣にあった。表札には青い絵の具で、漢字とローマ字で竹中冬子と書いてある。ベルを押したが返事はなかった。ドアをノックしても同じだった。ドアには鍵が掛かっていた。

 私は裕子を見た。

 裕子はもう一度、ベルを押してから、私を見て首を振った。私はうなづいて時計を見た。五時ちょっと過ぎだった。

 私の仕事は終わったが、彼女をここに置いておくわけにもいかなかった。もう少し、裕子に付き合う事にして、近くにあったファミリー・レストランに入った。

 ミルク・ティーを飲みながら、裕子は自分と姉の事について色々と話してくれた。姉の居場所が見つかって安心したのだろう。一人で喋り続けた。

 彼女と姉の冬子は本当の姉妹ではなく、従姉妹(いとこ)なのだという事。冬子は母親に育てられ、父親の顔は知らない。その母親は冬子が六歳の時に病気で亡くなった。その時、冬子の父親は素晴らしい画家だと言い残した。そして、母親の弟に当たる裕子の父親が冬子を引き取り、姉妹として育てられたという。裕子の子供の頃の思い出話を聞いていると、彼女は冬子の事を本当の姉以上に慕っているという事も分かった。

「素晴らしい画家って誰の事?」

「知りません、あたし‥‥‥でも、お姉ちゃんは捜したみたい。あの人が言ってたでしょ。あのマンションも立派だったし‥‥‥」

 裕子は急に姉が雲の上にでも行ってしまったような虚ろな顔をして話し続けた。

「きっと、有名な絵画きさんなんだわ、お姉ちゃんのお父さんは‥‥‥お姉ちゃん、とても大事にしてたの、その人の描いた絵を。まだ、未完成なんだけど、お姉ちゃんのお母さんを描いたらしいんです。とても、うまく描けてます。きっと、有名な絵画きさんなのよ。お姉ちゃん、喜んで行ったって、あの人、言ってました‥‥‥でも、どうして、うちの方に知らせてくれなかったんでしょう?」

「今日あたり、田舎の方に手紙が届いたかもしれないよ」

 彼女を慰めてみたが、彼女の表情は暗かった。

 私はタバコに火を点けた。

「君はなぜ、急に東京に出て来たんだい?」

 姉の事から自分の事を切り替えるのに少し時間が掛かった。彼女はミルクティーを一口飲んでから口を開いた。

「あたし、どうしても、お姉ちゃんに相談したい事があったんです」

「君の御両親は知ってるの?」

「勿論、知っています」

 裕子は明るい調子で言ったが、心の中を見られまいとして目を伏せていた。

 彼女が家出をして来ようと、これから先、この都会でひどい目に会おうと楽しい目に会おうと私にはどうでもいい事だ。自分で決めた事はやらないより、やった方がいい。泣こうがわめこうが大した事はない。生きている限り、どこにいたって、ひどい目に会うし、楽しい目にも会う。それでも、彼女は早いうちに田舎に帰った方がいいと思った。

 裕子はまた、姉との思い出を話し始めた。彼女にとって姉の存在はあまりにも大きい。大きすぎる。姉に押し潰されてしまいそうな自分の存在に、まだ、気づいていないようだった。

「お姉ちゃんはもう、帰って来たかしら?」

 裕子は電話を掛けに行った。最近の女子高生には珍しく、裕子は携帯電話を持っていないようだった。

 私は冷めたコーヒーを飲んだ。

 夕飯時になり、レストランは混んできていた。黄色と緑の制服を着たウェイトレスが忙しそうにテーブルの間を走り回っている。もしかしたら、このまま、裕子と夕飯まで付き合う事になりそうだ。

 今日は土曜日、冬子が夜遅くまで遊んでいる事も考えられる。相手が制服を着た高校生では居酒屋に連れて行くわけにもいかない。こいつは面倒な仕事を引き受けてしまったと後悔していた。

 裕子が愛嬌のある顔で戻って来た。

「まだ、帰ってません」

 腹が減らないかと聞くと、裕子は首を振った。もう少し待って、姉と一緒にしたいと言う。二杯目のレモン・ティーを飲みながら、裕子は自分の事を話してくれた。

 裕子はフルートをやっていて、シューベルトが好きで、この先、音楽の道に進もうと思っているらしいが、親に反対されて、姉に相談しに来たようだった。姉の冬子が絵をやっているので、あたしは音楽をやるんだと意気込んでいた。

 裕子は腕時計をチラチラ見ながら、大好きなシューベルトの事を話してくれた。外はすっかり暗くなっていた。

「もう、帰って来たかしら?」と裕子は電話の所に行こうとした。

 私は携帯電話を貸してやった。


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