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10.モーツァルトに捧げる [蒼ざめた微笑]

ピリス モーツァルト:ピアノソナタ全集



 お婆さんが二人、日の当たるベンチに腰掛けて話をしていた。太ったお婆さんと痩せたお婆さんだったが似たような顔をしている。数え切れない苦労を深いしわの間に隠して、幸福そうに笑っていた。

 私はジープを道路脇に止めて、携帯電話で山崎を呼んでいた。ベルが八回鳴った後、山崎の寝ぼけた声が聞こえて来た。

「今、何時だと思ってるんです?」と山崎は文句を言った。

「お前にとっちゃあ、まだ、夜中だろ。たまには朝の空気を吸ってみろ。気持ちいいぜ」

「分かってますよ。今朝だって、日の出を拝んでから寝たんですよ」

「頑張ってるらしいな。傑作は描けそうか?」

「時間が足らないですよ。本当は寝る暇なんかないんだけど体の方が利かなくなっちまった。もう、年です。何か用ですか?」

「藤沢隆二から何か連絡、あったか?」

「いや、ないですけど、どうしたんです?」

「奴は静斎の伜だったよ」

「まさか、そんな‥‥‥静斎が言ったんですか?」

「娘の恋人から聞いたんだよ。だけど、確かだぜ。隆二は間違いなく静斎の伜さ」

 しばらく、山崎は電話の向こうで驚いていた。

「そうだったのか‥‥‥奴はなぜ、嘘なんかついたんだろ?」

「俺もそれが知りたいのさ」

「他にも何かありそうですね。何をやってるんですか?」

「静斎の娘を捜してるんだよ。今の所、行方不明だ。明日あたり、ひょっこり帰って来るような気もするけどな」

「どんな娘なんです?」

「一口で言えば、いい女だ。色々と問題はありそうだがな」

「いい女ってえのは難しい問題を抱えてるもんです」

「分かったような事を言うじゃないか。いい絵っていうのはどうだ? お前の絵にも問題がありそうだな」

「問題だらけですよ。答えの出ない問題がね」

「ところで、お前、隆二から連絡先とか聞かなかったか?」

「連絡先ですか、ちょっと待って下さい」

 期待しながら、しばらく待った。

 連絡先は高田秀之という隆二の友達だった。私は彼の住所を控えた。

「しかし、驚いたな」と山崎は言っていた。

「藤沢静斎と藤沢隆二が親子だったとはね。でも、二人の絵はあまり似てないな。隆二の絵は静斎より流斎に似てますよ」

「そうなのか?」と私は聞いた。

「ええ、雰囲気がよく似てます。奴はスペインにいた時、流斎の話ばかりしてましたよ。流斎は静斎の弟弟子だから、それで、流斎の絵を実際に何枚も見る事ができたんでしょうね」

「そうか、静斎と流斎は兄弟弟子だったのか。すっかり、忘れてたよ」

「二人の絵は全然、違いますからね」

 電話の向こうで山崎はあくびをした。

「悪かったな。寝た方がいいぞ」

「ええ、おやすみなさい」

 コンクリートと緑に囲まれた清潔そうな白い団地が行儀正しく並んでいる、のどかな環境の中に古山浩子の家庭はあった。

 公園のすべり台では子供たちがさっそく、ジャンプごっこをして遊んでいる。原田や船木の名は小さな子供たちにも知れ渡っていた。やがて、その中の誰かが、偉大な夢を引き継いでくれるだろう。奥さん連中は子供たちを横目で見ながら、買い物袋をぶら下げて、現実的な団地の道徳問題を真剣に話し合っていた。

 三号棟の十六号室はすぐに見つかった。表札には古山徹、左側に浩子と書いてあった。

 私はベルのボタンを押した。中から、「どなたですか?」と女の声が返って来た。

 この辺りは物騒なのだろう。声はしたが、ドアは堅く閉ざされたままだった。

 私は、藤沢静斎さんの弟子で、紀子さんを捜しているという事を丁寧にドアに話した。チェーンロックのはずれる音がして、ドアがゆっくりと開いた。

 古山浩子が若奥さんという感じで登場した。ショートヘアーのせいか頭が小さく見える。全体的にも小柄だった。奥さんと感じたのはエプロンと右手に持っているハタキのせいかもしれない。私が変な事をしたら、そのはたきが活躍するらしい。睫毛の長い切れ長の目が私を見て、可愛い唇が開いた。

「紀子さんがどうかしたんですか?」

 少女のような顔に似合わない、渇いた落ち着いた声だった。

 私は紀子のいなくなった、いきさつを話した。浩子はハタキをもてあそびながら聞いていた。

「別に心配しなくても大丈夫だと思います」と浩子は言った。

「心配しなくても、彼女はそのうち帰って来ますよ」

「紀子さんのお母さんもそう言っていました。平野君もそうです。彼女と親しい人たちは誰も心配していません。ただ、先生だけが本気で心配しています。私には彼女の事がよく分からないのです。あなたは紀子さんと大学時代の親友だと聞きました。もし、よかったら、私に彼女の事を話してもらえませんか?」

 彼女は少し考えてから、私を中に入れてくれた。

 部屋の中は家具がぎっしりと詰まっていた。落ち着いた感じの家具ばかりだったが、彼らにとって、あまりにも空間が狭すぎた。

 居間の壁に掛かっている十号位の流斎の油絵が印象的だった。頭の上部と膝から下がキャンバスからはみ出した若い女のヌードだ。青いベッドだかカーペットだか分からないが、そこに片肘をつき横になって微かに笑っている。大胆なタッチで最小限の線と最小限の色で最大限の雰囲気を出している。どこかで見た事のある顔だと思ったが思い出せなかった。

「橋田流斎です」と浩子が言った。

「主人の父が流斎さんとお友達だったそうです。田舎が同じで子供の時分から知ってるって言ってました。まるで、絵を描くためだけに生まれて来た天才だって父は言ってます。その絵の顔のモデルは妹さんらしいです。若い頃はとても綺麗だったそうです。今でも綺麗ですけど‥‥‥」

「妹が顔のモデルですか‥‥‥体の方は?」

「そんな事知りません」

「でも、どうして、顔と体が別々なんです?」

「妹さんがヌードになるはずがないじゃないですか」

「そうですか‥‥‥その妹さんは今も生きてるんですか?」

 浩子は驚いたように私を見つめた。

「知らないんですか?」

「ええ」と私はうなづいた。

 彼女の目に疑惑の色が漂った。知らない事が信じられないという顔つきだった。

「紀子のお母さんですよ」と浩子は私を観察しながら言った。

「あっ、そうか」と私は思わず、手を打った。

「今のお母さんですね。そうですよね、あの人がヌードになるはずないですよね」

 確かに、その顔は今朝会った静斎夫人の顔だった。三十年以上前の顔だと思うが、今も、やはり似ている。静斎夫人が流斎の妹だったとは、まったく知らなかった。そんな重要な事を誰も教えてくれなかった。

 浩子は台所の方に行った。やかんが忘れられて怒っていたのだ。

 本棚には豪華な美術全集が揃っていた。橋田流斎も藤沢静斎もあった。二人の師である三浦硯山(けんざん)のもあった。

 柔らかなソファーに腰を下ろし、タバコをふかしながら流斎の絵に見とれていた。見ていて飽きない。顔と体が別のモデルだと言われて見ると、そんなような気がしないでもないが、この絵にはそんな不自然さはなかった。これだけ単純化した絵なら、いちいち、モデルを見ながら描いたものではないだろう。流斎の頭の中のイメージをそのままキャンバスに移してみたら、結果的に顔が妹に似ていたに違いない。

 エプロンを取った浩子がお茶を持って戻って来た。

「私が結婚してからは紀子、あまり、来ないんです。今度、紀子に会ったら遠慮しないで遊びに来るように言って下さい。どうぞ」

 浩子は私の正面に腰を下ろした。クリーム色のセーターがよく似合っていた。彼女の亭主がどんな奴だか知らないが、勿体ないと思った。家庭的な可愛い奥さんだった。

 私はお礼を言って、お茶を飲んだ。熱かった。舌をやけどしたらしい。

「紀子さんに、この前、会ったのはいつですか?」

「一月位前だと思います」

「大学時代の彼女の事を話してくれますか?」

「いいですけど、紀子の過去なんか調べてどうするんですか?」

「第一に紀子さんを捜すには、彼女の事をある程度、知らなければならないのです。第二に私が彼女に興味を持った事です。彼女のお母さんや平野君の話を聞くと、どうも、彼女は普通の人とは違います。それに、彼女のピアノです。私も絵画きの端くれですから、彼女のピアノの素晴らしさは分かります。あれだけ素晴らしい曲を作ったり、演奏したりする彼女が、どんな人間なのか興味を持ったのです。彼女の音楽に対する情熱は異常とも言える程です。あれだけの情熱が一体、どこから来るものか、私にはよく分かりません。学生時代の彼女がどんなだったのか話してくれませんか?」

 浩子は考え込むように俯いていた。しばらくして、顔を上げて私を見ると軽くうなづき、両手をテーブルの上で組んだ。小さな手だが指は長く、しなやかで、爪はピンク色に光っていた。

「あの頃は、私もピアノをやっていました」と浩子は話し始めた。

「紀子の事は入学した時から知っていました。明るい人ですから人気者で、いつも、みんなに囲まれてました。私はわりとおとなしい方だから、その頃は付き合いがありませんでした。紀子と仲よくなったのは静斎さんの個展の時です。私、音楽も好きですけど、絵も好きなんです。絵の方は見るだけですけど‥‥‥ピカソ展にも行きましたし、ゴッホもセザンヌもシャガールも見に行きました。あなたも絵画きさんでしたね。どんな絵をお描きになるんですか?」

 長い睫毛越しに浩子の目が私を見つめた。しかし、それはほんの一瞬だった。

「私の絵はまだ、人に見せられるような物じゃありませんよ」

 私はタバコを埃一つない綺麗な灰皿で揉み消して、椅子の背にもたれ掛かった。

「それで、静斎さんの個展会場で紀子さんと会ったのですか?」

「ええ、そうです。紀子と会いました。そして、静斎さんを紹介してもらったり、お夕食も御馳走になりました。あの時、私、とても嬉しかったんです。まだ、東京にも慣れなくて‥‥‥それから、紀子と絵の事や音楽の事など話したりして気が合ったんです。その頃、私はアパートを借りていました。私の田舎は北海道なんです。今頃は雪で真っ白です。冬の北海道は綺麗ですよ。あなたは紀子の作った曲で『雪人形』っていうのを聴いた事あります?」

 私は、ないですと答えた。

「あの曲は私と一緒に冬の北海道を旅行した時に作った曲なんです。いい曲ですよ。私、とても好きです。一度、聴いてみて下さい。ほんとに綺麗な曲です‥‥‥あの、私、どこまで話したかしら?」

「アパートの話でしたが」

「ええ、私のアパートに紀子はよく遊びに来たんです。一週間のうち、半分近くは私の所に泊まってました。私のアパートはわりと大学から近かったんです。紀子がうちに帰る時には、私も一緒に連れて行く事もよくありました。あの白いピアノのある大きなお屋敷です。本当の姉妹みたいな付き合いでした。でも、毎日、一緒にくっついてたわけじゃありません。紀子は気まぐれでした。夜になると、私のアパートに訪ねて来て、色々な事を私に相談するんです。私には何一つ隠さずに相談してくれました。私も紀子には何も隠しませんでした。紀子は男の子にもてましたし、色んな男の子と付き合ってました。でも、みんな、本気じゃなくて遊んでるようでした。その頃の紀子はまだ音楽も本気でやってません。ピアノは子供の時からやってたんでうまかったけど、学生気分で遊んでるようでした‥‥‥でも、大学の二年の時です。紀子は本気で恋をしたんです。相手の人は二歳年上の同じ大学の先輩でした。紀子は毎日、幸せそうでした。私に彼の事ばかり話して聞かせました。もしかしたら、音楽をやめて、その人と結婚するかもしれないとまで言いました‥‥‥でも、そうはなりませんでした。半年目に捨てられてしまったんです。紀子は傷だらけになって泣き続けました。あんな紀子を見たのは初めてです。私は何て慰めていいか分かりません。私まで悲しくなって来て、何げなく、ピアノを弾き始めたんです。その日、私は紀子をうちまで送って行ったんです。そして、紀子のピアノでモーツァルトを弾きました。紀子はとてもモーツァルトが好きなんです。確か、ピアノ・ソナタの十一番です。あの有名なトルコ行進曲の付いてる曲です。あなたはモーツァルトって、どんな人だったか知ってますか?」

「シューベルトなら、いくらか知っています」と私は答えた。裕子がフルートで吹いてくれた『セレナーデ』という曲だけは知っていた。

「シューベルトもいいけど、モーツァルトは本当の天才ですよ。たった五歳から作曲してるんです。八歳の時にはもう交響曲を作ってるんです。モーツァルトの曲について、ゲーテは悪魔が発明した曲だと言ってます。人間が考え出したとは思えない程、とても美しいんです。モーツァルトはオーストリアのザルツブルグで生まれて、小さい頃から色々な国を廻って演奏してたんです。最後にはウィーンに落ち着きましたけど、三十五歳で死んでしまいました。でも、彼は死ぬまで曲を作り続けていました。病気になって、ペンが持てなくなっても、お弟子さんたちに代筆してもらったりして‥‥‥最後に作った曲はレクイエムだったんです。紀子は今、レクイエムを作ってるんでしょ? きっと、その曲を作るために旅行してるのよ、彼女」

「そうかもしれません」

「モーツァルトは本当に素晴らしいですよ。私は、どっちかというとベートーヴェンの方が好きなんですけど‥‥‥」

 浩子がベートーヴェンの話を始めないうちに私は遮(さえぎ)った。

「ベートーヴェンの話は後で伺います。それより、続きを聞かせて下さい。紀子さんが泣いている。あなたがピアノでモーツァルトを弾いた。それから、どうしました?」

 浩子はお茶で口をうるおしてから、話を元に戻した。

「私は紀子の好きな曲を弾きました。紀子はしばらく、私のピアノを聴いてました。けど、そのうち、彼女も泣きながらピアノを弾き始めたんです。紀子は泣きながらピアノを弾き続けました。私は今でも、あの時の紀子とあの時の曲を覚えてます。紀子はまるで、ピアノと一つになってました。私はあの時程、モーツァルトに感動した事はありません。私、モーツァルトがあんなに悲しい曲だと初めて知りました。第三楽章に入った時には、もう悲しくて、悲しくて涙が止まりませんでした‥‥‥あの時からです。あの時から、紀子は音楽を真剣にやり始めたんです。初めて曲を作ったのも、その後でした。モーツァルトに捧げると言って『ヴォルフガング・アマデウス』という名前を曲に付けました。ソナタ形式の綺麗な曲です。紀子が音楽を本気でやり始めたのを見て、静斎さんは古いテープを聴かせてくれました。私も一緒に聴きました。女の人が低いかすれた声でブルースを歌ってました。すごく悲しくて、心にジーンとしみて来る歌でした。私も紀子も感動しました。その歌は紀子の本当のお母さんが歌っていたんです。それを聴いた時、紀子の心の中で本当のお母さんのイメージと音楽が一体化したんだと思います。静斎さんは紀子に本当のお母さんの事について色々話してくれたそうです。お母さんが二十五歳で殺された事も隠さず、教えてくれました。紀子は殺されたという事に驚いてはいましたが、それ程ではありませんでした。その事より、お母さんの歌の方が紀子の心を捕えてしまったようでした。それからの紀子はもう音楽に夢中です。まるで、音楽を理解する事が、お母さんを理解する事のように‥‥‥まるで、気違いのように音楽の事しか考えなくなったんです。そして、次の年、アメリカに留学しました。一年のはずでしたけど、紀子は二年間、アメリカにいました。アメリカにいる間にジャズをやり始めたんです。アメリカから帰って来た紀子は大学には戻りませんでした。静斎さんのお店で演奏したり、作曲したり、旅行したり、ちょっと常識はずれの行動が今まで続いてるんです。でも、紀子が作った曲は皆、素晴らしいのばかりです。紀子は音楽のためだけに生きてるんです。他人から見れば我がままでムチャクチャです。彼女の事を悪く言う人もいます。でも、紀子のような生き方は普通の人にはとてもできません‥‥‥あなたは紀子の曲、聴いた事あります?」

「ええ、聴きました。素晴らしいと思います」

 私はタバコに火を点けて、頭の中を整理した。

 子供の頃からピアノをやって、音楽大学に入り、初めは普通の大学生、二年の時の失恋、モーツァルト、本当の母親の歌、アメリカ留学、ジャズ、そして、今の紀子がいる。

「私、紀子にピアノ協奏曲を作れって言ってるんです。紀子なら、きっと、素晴らしいのが作れますわ」

「そうですね‥‥‥ところで、彼女、最近、本当のお母さんの事、何か言ってませんでしたか?」

「いいえ」と浩子は言って、茶碗に手を伸ばしたが、お茶は飲まずに、ただ、眺めていた。

「でも、隆二兄さんが帰って来ると言って喜んでました。ずっと、家出していたお兄さんです。そのお兄さんが本当のお母さんの事を何か知ってると言ってましたけど‥‥‥」

「隆二さんが紀子さんの本当のお母さんについて、何かを知ってるって?」

「はい、そう言ってました。居場所が分かれば、すぐに飛んで行くのに、全然、連絡をくれないってぼやいてました」

「そうですか‥‥‥」

 私は流斎の絵を眺めながら、ゴヤの絵を思い出していた。ゴヤの絵にも頭と体が別々のモデルだと言われているヌードの絵があった。

 浩子は冷めたお茶を見つめていた。

「あなたは本当のお母さんについて、どの位、知ってるんですか?知ってるだけでも話して下さい」

「私はあまり知りません。歌手だったという事と殺されたという事だけです。それ以上の事は知りません。紀子も詳しくは知らなかったんだと思います。ただ、私の夫の父親は紀子のお母さんにも会った事があるって言ってました。もしかしたら、紀子、父から何かを聞いたかもしれません」

「あなたの旦那さんのお父さんは流斎さんと田舎が同じだって言いましたね。すると、古くから静斎さんとも付き合いがあったわけですか?」

「ええ、そうです。最近も静斎さんの家族の人たちと一緒にスキーに行って来ました。昨日、帰って来たばかりですよ」

「湯沢の山荘ですか?」

「ええ、そうです‥‥‥父は美術の本を出版してるんです」

 浩子は本棚の美術全集を目で示した。

「画廊も持ってます」

「紀子さんは今のお母さんとは、うまくいってるんですか?」

「ええ、うまくいってますよ。あの御両親は素敵な人たちですよ。お二人とも紀子の事をとてもよく理解しています。紀子があのお母さんの事を悪く言った事は一度もありません。もっとも、彼女が人の悪口を言ってるのを聞いた事はありませんけど‥‥‥あなたは上原和雄っていう人、御存じですか?」

「いえ、知りませんが」

「紀子に付きまとってた人です。嫌な人です。ちょっと二枚目なもんで、それを鼻に掛けてるんです。紀子は全然、相手にしませんでしたけど、ある時期、うるさいくらいに彼女に付きまとってました」

 嫌な物を吐き出すように浩子は言った。

「私も人の悪口は言いたくないんだけど、でも、あの人は‥‥‥」

 苦い薬でも飲み込んだように浩子の顔は歪んだ。そして、取って付けたような微笑をした。

「でも、平野さんのような人と知り合えて、紀子もよかったわ。あの人なら紀子の事、よく分かってるし、紀子の方もべた惚れよ。会うたびに彼の事ばかり聞かされてるわ」

 浩子の指がピアノの代わりにテーブルを軽くたたき始めた。軽快なリズムが流れた。

「上原和雄さんていう人は何をしている人ですか?」

 浩子は椅子の中で体を動かした。テーブルは単調な音を繰り返している。答えたくないようだった。

「自称はカメラマンらしいわ」と浩子は言った。

「風景が専門だって言ってるくせに、何を撮ってんだか分かりゃしない。女は誰でも言いなりになると思ってるのよ。チンピラよ」

 彼の事を思い出すだけでも腹が立つようだ。彼の住所を聞こうと思ったがやめた。彼の代わりに私が怒られそうだった。

「あなたの旦那さんのお父さんの住所、教えてもらえます? 紀子さんのお母さんの事について、少し、聞きたいのです」

「教えてもいいですけど、どうして、そんなに聞きまわるのですか? まるで、刑事さんみたい」

 浩子の目の色が好意から不審に変わったが、彼女の指はリズミカルに動いていた。

「先生が本気で心配してるんですよ。紀子さんは私が最後に会った時、お母さんの事を何か、捜してるようだったんです。それに、彼女は帰国したばかりの隆二さんと会ってから、どこかに消えちゃったんです」

「隆二兄さんが帰って来たんですか?」

「ええ。日曜日に紀子さんと会ってます。あなたは隆二さんを知ってるんですか?」

「いいえ、会った事はありません。パリにいるって紀子から聞いた事はあります。紀子が高校に行ってた頃から、うちに寄り付かなくなったとか‥‥‥紀子、お兄さんから何を聞いたんだろ?」

 浩子の指の動きが止まった。体全体が凍ったように動かなくなった。

「分かりません。でも、何かを聞いてから、紀子さんはいなくなりました。もしかしたら、彼女に何かが起こったかもしれません」

 浩子の体がゆっくりと動き出した。

「大丈夫ですよ」と浩子は言って、微笑を浮かべた。心配など何もないような微笑だった。

「お兄さんは紀子がどこにいるのか知らないのですか?」

「彼も今の所、どこにいるのか分からないのです」

 浩子の顔に不安の影がさした。握った右手を口に当てて、ぼんやり、テーブルを見ていた。私は悪い事を言ったような気がしてきた。

「分かりました」

 浩子が目を上げて言った。長い睫毛が微かに震えていた。

「父は多分、今日はうちにいると思います。電話して聞いてみます」

 彼女は立ち上がって電話の所に行った。お陰で、私は浩子と一緒に昼食に招待される事になった。


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