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12.本屋の主人は語る [蒼ざめた微笑]

エル・グレコの生涯



 電車は空いていた。

 丁度いい酔い加減だった。どいつの顔も幸せそうに見えた。

 次の駅で座席は埋まった。二つ目の駅で年寄りが乗り込んで来た。疫病神のような気に入らない顔をした婆さんだった。婆さんは意地の悪そうな目で私の方を見た。ただ、無駄に年だけを取って、人に迷惑をかける事だけでしか自分の存在を確かめられない人間の一人だった。

 私はわざと無視した。私の隣に座っていた娘が罠(わな)にかかった。娘は立ち上がって婆さんにいたわりを込めて席を譲った。婆さんは当然のような顔をして座り込んだ。娘は私の前に吊革につかまって立った。あどけない可愛い顔をしていた。この娘を立たせるのなら私が立つべきだった。

 婆さんは二つ目の駅で降りて行った。娘は座らなかった。代わりに威勢のいいあんちゃんが素早く座り込んだ。擦り切れたデニムジャケットを来て、茶髪のロン毛、耳にピアスが光っている。キムタクに似ていると言ってやれば、嬉しいそうにニヤッと笑うに違いない。しかし、お世辞にも、そんな事をいえる面ではなかった。ガマガエルのような顔をしていて足は短かすぎた。

 隆二の連絡先の高田秀之は学生街にある小さな本屋だった。

 本屋の中にはルーズソックスをはいたコギャルが二人、雑誌の中のブランドグッズを眺めながらキャーキャー騒いでいた。奥のレジの所に、ブランドグッズなんて興味ないといった若い女が身動きもせず本を読んでいた。

 私は本に熱中している女に声を掛けた。

「面白いですか?」

 彼女は本から顔を上げて私を見た。本屋の売り子にしては無表情だが派手な顔立ちをしている。こんな薄暗い奥に引っ込んでいないで、外から見える所に座っていれば売上げも倍以上になるに違いない。

「面白くありません」

 本当につまらなそうに彼女は言った。

「退屈だから読んでいるだけ、何か御用ですか?」

「高田秀之さんはいらっしゃいますか?」

 彼女は顔を少ししかめてから、「奥で仕事をしています」と言った。

 感情のまったくない声だった。

 私は軽くうなづいて、奥の方に入って行った。

 女はまた、本を読み始めた。まるで、この店内の本をすべて読まなくては気が済まないという意気込みが感じられた。

 高田秀之は本の山の中でボンヤリとタバコをふかしていた。どう見ても、仕事をしているようには見えない。長い髪に口髭をはやし、汚れたセーターに色あせたジーンズをはいて、あぐらをかいている。どう見ても、本屋の主人には見えなかった。

「何か?」

 彼は半分、寝ているような声で言って、私を見上げた。

 私は藤沢隆二の知り合いで彼を捜しているのだが知りませんかと聞いた。彼は私の話題が気に入ったようだった。急に顔が生き生きとして陽気な笑顔を見せた。

「ここでは話もできません。とにかく、外に出ましょう」

 彼の気持ちはよく分かった。この本の山から抜け出したいのだ。理由は何であれ、自分をここから出してくれる人間は大歓迎なのだ。

 彼は立ち上がって服の埃を払いながら、チラッと本を読んでいる女を見た。女は相変わらず、化石のように本に熱中していた。

「仕事の話で、ちょっと行って来る」

 彼はコートをはおると女の顔も見ずに言って、私の背中を押すように素早く店から逃げ出した。女の声は何も聞こえて来なかった。

「監視されてるんですよ。あれは俺の女房なんです」

 近くの喫茶店に入った。暇そうな学生たちが真剣にマンガを読んでいた。高田秀之はコーヒーをうまそうに飲んでから言った。

「藤沢には会いましたよ。確か、先週の土曜に来ましたよ」

「今、どこにいるか知りませんか?」

「さあ、分かりません。でも、荷物は私んとこに置いてきましたから、そのうち、戻って来ると思いますけど‥‥‥」

 彼はポケットからショートホープを出すと口にくわえて、器用に片手でマッチの火を点けた。

 私は氷入りの水を飲んだ。

「彼はなぜ、うちに帰らないのですか?」

「それも分かりませんね。何か、あったんじゃないですか。確か、大学の二年の時ですよ、うちを飛び出したのが。私にも理由は教えてくれませんでした」

「そうですか‥‥‥」

 私は窓から外を眺めた。夕暮れの中、人々が操り人形のように、ぎこちなく歩いていた。

「おたくは、どこで藤沢と会ったのですか?」

 高田秀之が聞いた。

「スペインです。マドリッドで一年近く、彼と一緒に遊んでいました」

 私はまた、嘘をついた。

「そうですか、スペインですか。いいなあ、俺も行ってみたかったなあ」

 彼はタバコの灰を灰皿に落とし、テーブルを一つ隔てた向こうで話をしている二人の女をチラッと見て、顔を歪めた。二人共、個性の強すぎる顔をしていた。

「マドリッドにはプラド美術館があるでしょう。私はエル・グレコの絵が好きなんですよ。プラドにもグレコの絵があったでしょう?」

「ええ、ありました。でも、グレコならトレドに結構ありましたよ」

「トレドですか‥‥‥行きたいなあ。十六世紀がそっくりそのまま残ってる町でしょう。グレコの家も残ってるんじゃないですか?」

「ええ、残ってます。今は美術館になってますよ。古い小さな町です。トレドの町は川に囲まれてるんですよ。その川に古い橋が架かっていて、その橋を渡ってトレドの町を見ると最高の眺めでした‥‥‥マドリにいた頃は、トレドなんて、ただ古臭くて面白くもない小さな町だと思ってたんですけど、日本に帰ってみると、もう一度、行ってみたい町だと思ってます。後の祭りですよ」

「見ただけでもいいですよ。俺なんか結婚しちゃって本屋なんかやってる。絵なんか描く暇はないし、スペインなんて夢の話です。毎日、女房の目をかすめて酒でも飲むのが精一杯です。藤沢やあなたが羨ましいですよ」

 私はポケットからタバコを出して口にくわえた。後一本しか残っていなかった。片手でジッポーの蓋をあけて火を点けた。タバコはたいしてうまくなかった。

「隆二の事を話してくれませんか。彼はスペインでは両親は死んだと言っていました。ところが、隆二は藤沢静斎の息子だった。どうして、嘘なんかついたのか私には分からないんです」

「両親は死んだって言ってたんですか?」

「ええ。父親は自殺して、母親はその後を追うように病死したと」

「へえ‥‥‥確かに、奴は日本を出る前からうちには寄りつかなくなってたけど、何で、そんな事を言うんだろ」

 彼は新しいタバコをくわえると、古いタバコから火を移した。

「あいつが日本を出たのは確か、五年前です。ある日、奴がリュックを背負って、私の店にやって来ました。『山にでも行くのか?』と聞いたら、『ちょっと、ルーブルに行って来る』って言いました。俺は本気にしなかった。冗談だと思いましたよ。ところが、しばらくして、パリからあいつのスケッチと手紙が届いたんです。俺は驚きましたよ、奴は本当にパリに行ったんだってね。それから五年です。いや、正確にいうと四年半かな。あいつは四年半も日本に帰って来なかった。そして、先週の土曜日に俺んとこにひょっこり現れたんです。俺が店を閉めようとしてた時でした。あいつは小さなスーツケースを持って店の前に立ってたんです。あいつは『やあ、元気か?』って言いましたよ。俺はしばらく、声も出なかった。四年半前と同じで相変わらず、汚い格好をしてました。四年半も経ったのが嘘のようでした。あいつはちっとも変わっちゃいなかった。そして、その晩、二人で飲みました。あいつはヨーロッパの事はあまり話さなかった。ただ、絵の事ばかり話してました。これからは水墨画をやるとか言ってたな。朝方まで飲んでましたよ。そして、昼頃、あいつはちょっと用があるからって、どこかに行っちまった。また、そのうち寄るよって言ってましたけど、どこに行ったんだか、まだ、あいつから連絡はありません‥‥‥変わってるよ、まったく」

 この店には酒があるから酒を飲もうと言って、彼はウィスキーを注文した。水っぽいウィスキーを飲みながら隆二の学生時代の事を話してくれた。酒というのは便利な物だ。皆、喜んで、他人の過去を語ってくれる。アルコールに感謝しながら、私は静かに彼の話を聞いていた。

「俺も藤沢も一浪して大学に入ったんです。あの頃の藤沢は別にどうって事もない、ただの学生でした。旅行が好きで暇があるとスケッチブックを持って、どこかに行ってました。帰って来た時、スケッチブックを見せてもらうと何も描いてありゃしません。それでも、旅に出る時は必ず、スケッチブックを持ってきましたよ。たまに何かが描いてあると思ったら、女の顔です。誰だって聞いてもニヤニヤ笑うだけで答えやしません。どうせ、どこかの商売女だろうと思いましたよ。あいつはあの頃、エコール・ド・パリの絵が好きでした。いつか、パリに行くんだって口癖のように言ってましたよ。実際に行ったのはずっと後だったけど‥‥‥確か、二年の時かな、急に橋田流斎の絵がいいって誉め出したんです。それからは流斎の絵を持ってる人を訪ねてっては見せてもらってました。あいつは流斎の甥だから、みんな、喜んで見せてくれたみたいです。俺も何度か付き合った事もありました。確かに流斎の絵はよかった。俺はどっちかってえと静斎の方が好きなんだけど、あいつの前で親父の話をすると、あいつ、気を悪くするんで俺は言いませんでした。あいつだって本当は親父の絵が好きなんです。ただ、意地を張ってるだけさ‥‥‥ある日、あいつは流斎の生まれた村を訪ねたんです。帰って来た時は、やけにふさぎ込んでました。それからです、あいつが変わっちまったのは。俺が『どうしたんだ?』って聞いても何も答えなかった。金があればあるだけ、毎日、酒ばかり飲んでました。大学にもあまり行かなくなりました。金がなくならなくちゃ、うちにも帰らなかった。素性の知れない女のとこに泊まったり、俺んとこに泊まったりしてました。そのうち、うちの方には全然、帰らなくなっちまって、妹さんに金を持って来させたりしてました‥‥‥あんな事をしていて、よく、親父さんが怒らなかったもんですよ。ただ、絵だけは忘れずにやってたみたいでした。そのうち、半年位、東京からいなくなりました。日本中をブラブラ旅をしてたそうです。帰って来てからも、うちには帰らなかった。安いアパートを借りて、アルバイトもしてたみたいだったけど、みんな、あまり長続きしなかったらしい。妹さんが相変わらず、金を運んでやってましたよ。俺は大学を卒業して、うちの跡を継いで本屋をやり始めました。初めの頃は絵も描いてたけど最近は駄目です。結婚してからは一枚も描いてません‥‥‥あいつは大学を中退しちまった。俺が本屋をやってからも、あいつは何もしないでブラブラしてました。どこで見つけたのか知らないけど、いつの間にか、女と暮らしてました。その女の人は真面目な人でした。どこかのブティックか何かで働いてたらしい。あいつはひもみたいな生活をしてたわけです。俺もその人に何度か会った事があるけど、いい人でした。藤沢の事を尊敬してるようだった。その人と一緒になってからは、あいつも、いくらか落ち着いて絵を描いてたようでした。一時は病人みたいだったけど体もよくなったみたいでした。俺は二人が一緒になったら、きっと、うまく行くだろうと思ってたんです。でも、あいつはとうとう、日本を飛び出しちまった‥‥‥彼女、今、どうしてるか知らないけど、あいつが日本を出てから田舎の方に帰ったらしいです」

「その女の人の名前、覚えてますか?」

「ええと‥‥‥由起子さんて言ったかな。名字の方は忘れました。俺たちより二つ下だったから二十六のはずです。もう、誰かと結婚して子供もいるでしょう。まさか、あいつを五年も待ってるはずはない。田舎だって、どこだか知らないし‥‥‥」

 彼はちびりちびり水割りをすすった。満足そうだった。

 隣のテーブルでは昼のメロドラマの続きを演じていた。女の方が役者が一枚上だった。男は回りを気にしながらイライラとタバコをふかしていた。

 突然、私の携帯電話が鳴った。私は、失礼と言って、電話に出た。

 冬子だった。冬子に携帯の番号を教えた覚えはなかった。多分、昨夜、いい気になって教えてしまったのだろう。

「紀子さん、見つかりました?」と冬子は聞いた。

「まだ、分からない」

「今、どこにいるんですか?」

「学生街の喫茶店さ。君は何してるんだ?」

「あなたを描き始めたんだけど、どうしても、うまく描けないんです。あんなあなたを見ちゃったんで、イメージが以前と変わっちゃったし、ねえ、おじさん、あたしんちに来て、モデルになってくれません?」

「悪いな。今日のうちにやらなければならない事がまだあるんだよ。仕事が終わったら連絡するよ」

「待ってるわ。頑張ってね」

 電話をポケットにしまうと秀之を見た。幸せそうな顔をして、水割りをなめていた。

「失礼しました。隆二はなぜ、うちを飛び出したんだと思います?」

「さあ、俺には分かりません。流斎の生き方でも真似したかったんじゃないのかな。それとも、親父に反抗したのかな。あいつは本当の事を教えてくれなかった。あれだけ、荒れてたんだから何かあった事は確かだけど‥‥‥ただ、あのうちにいたんじゃ、本当の絵は描けないって言ってました」

 私は二抔目のウィスキーの色をした水を飲み干した。もう少し、何か聞きたい事があったような気もしたが忘れてしまった。そんな事は、もう、どうでもよかった。いい音楽を聴きながら、何もかも忘れて、うまい酒が飲みたかった。

 肩書の書いてない名刺を彼に渡し、テーブルの上の伝票を取って、彼に三抔目の水割りを頼むと私は喫茶店を出た。

 高田秀之は水割りに向かって、親しげに仕事の話をしていた。


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