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28.ログハウスのバランタイン [蒼ざめた微笑]

バランタイン30年



 スキーシーズンだったが、平日の昼過ぎだったので道はそれ程、混んでいなかった。

 沼田を越えた辺りから雪がちらついて来た。この前、東京に大雪が降った時、スタッドレスタイヤに替えたので、雪道も問題なかった。

 私のジープの前には屋根にスキーを乗せた赤いワゴンがいて、女の子ばかり五人も乗っていた。窓ガラスは蒸れて曇っている。私は震えながら、一人ばかり貸してくれないものかと願った。ひろみに道案内させて、ジャガーボルボに乗ってくればよかったと後悔した。

 湯沢に着いた時には冷たい太陽が西の山に沈み掛け、私の体はコチコチに凍っていた。ジープごと温泉の中に突っ込みたい気分だった。

 静斎の山荘は温泉街から少し離れた山の中腹に建っていた。回りを雪と白樺に囲まれた三角屋根の大きなログハウスだった。途中で二回、道を聞いて、何とか、たどり着いた。山荘には電話を掛けなかった。突然、行けば、モデルの美喜と会えるような気がした。

 藤沢と書かれた門は開いていた。ジープを中に入れ、ガレージの前に止めた。ガレージはシャッターが降りていた。時々、雪掻きをしているらしく、広い庭の必要な所は大して雪は積もっていない。雪掻き用のプラスチックのスコップが二本、玄関の脇に置いてあった。

 ログハウスは三階建てで、一階と二階にはベランダが付いている。一階の右側の窓と二階の左側の窓から明かりが漏れていた。太い氷柱(つらら)が屋根から何本もぶら下がっていた。

 三段ある石段を上り、玄関のベルを鳴らそうとしたら、家の中から声が聞こえて来た。女の甲高い声だった。何を言っているのか聞き取れなかったが、確かに女はいるらしい。

 私はベルのボタンを押してみた。急に、何も聞こえなくなった。十秒程、待ってみた。ひっそりとしたまま反応はなかった。もう一度、押してみた。やがて、ドアが開いた。

 背の高い男が現れた。神経質そうな目が私を見て、そして、私が乗って来たジープを見た。

「何か?」と彼は少し怯えているような声で言った。

「藤沢淳一さんですね。私は静斎さんに頼まれて来ました」

「ああ、日向さんですね?」

 私はうなづいた。

「ひろみから電話がありました。母がいなくなったというのは本当なのですか?」

「本当です。昨日の昼過ぎに出掛けたまま、まだ、帰って来ません」

「そうですか‥‥‥でも、ここには来てませんよ」

 彼はそっけなく言って、微かに笑った。

「来てませんか‥‥‥あなたに何か、心当たりはありませんか?」

「ありません」と彼ははっきりと言ったが、俯いたまま、ぼんやりと立っていた。

「中に入れてもらえませんか? 体が凍りそうなんです」

 彼はかすかにうなづいて、「ええ、どうぞ」と言った。

 淳一は広い居間に案内してくれた。まるで、天国のように暖かかった。暖炉の中では、火が赤々と燃えている。私は吸い込まれるように部屋の奥にある暖炉の側に行き、感覚のなくなっている手と足を火に向けた。極楽だった。

 暖炉の右の方に大きなワイド画面のテレビがあった。ここで名画を見ながら酒を飲み、素晴らしいアフタースキーを過ごすのだろう。今はスイッチが入っていなかった。

 ゆったりとくつろげるソファーに囲まれたテーブルの上に、スコッチのボトルとグラスが一つ、氷が半分程入っているアイスペール、花瓶のような水入れ、パイプとパイプ用のタバコ、それに、映画の雑誌が伏せて置いてあった。高級な洋酒がずらりと並んだサイドボードの上にステレオが置いてあり、スピーカーから低く、ジャズが流れている。ヴァイブの高音が快く響いていた。

 淳一はソファーに腰掛け、体を堅くし、火の消えたパイプを左手で持って、それを見つめていた。火が消えてしまった事が理解できないというような顔付きだった。部屋の中を見回してみたが、女がいたという形跡は見当たらなかった。

「一人でここにいるんですか?」と私は聞いてみた。

 淳一は驚いたようにピクッとしてから、私の方に顔を向けた。髪は綺麗に七、三に分け、小さな耳は飾りのように顔に貼り付いている。眉は太く、力強いが、その下の目は頼りなく落ち着いていない。鼻の形は静斎に似ていて、唇は薄く、顎は細く尖っていた。顔はよく日に焼けているが健康そうには見えなかった。精神的に参っているようだ。脚本の仕事がうまく行っていないのかもしれないし、美喜ちゃんとうまく行っていないのかもしれない。あるいは、ひろみの事も悩みの種かもしれない。茶色いスラックスは似合っていたが、派手なスキー用のセーターは似合っていなかった。

「ええ、一人です」

 怒っているような口調だった。私を歓迎してはいないようだ。それでも、夜が明けるまでは、充分にこの天国で楽しむつもりだった。

「こんな静かな所で、淋しくありませんか?」

「一人の方が仕事がはかどるんですよ」

「『和泉式部』だそうですね。うまく行ってますか?」

「ええ、何とか‥‥‥」

 力のない声だった。彼はまた、パイプを見つめた。

「母はなぜ、いなくなったのですか?」

「私には分かりません。お母さんはお墓参りに行くと言って、出て行ったまま帰って来ません」

「伯父のお墓参りですか?」

「ええ、流斎さんと紀子さんの本当のお母さんのお墓です」

「母は毎月、必ず、行っていました」

 彼はグラスの中に残っていた水割りを飲み干した。溜息をついてから、私の事を思い出したように、「飲みますか?」と聞いた。

「ええ、いただきます。体中が冷え切ってますので‥‥‥」

 淳一は立ち上がり、サイドボードからグラスを出して、ステレオのジャズに耳を傾けてから、また、腰を下ろした。彼は二つのグラスに半分程、スコッチを注いだ。氷を入れると、私に水を入れるかどうか目で聞いた。私は首を振って断った。彼は自分のグラスに水を入れて、スコッチを倍に薄め、洒落たマドラーで軽くかき回した。

 私は暖炉の前から離れ、彼の正面に腰を下ろした。彼はグラスを私の前に置くと、自分のグラスを口に持って行き、一口なめて、舌を鳴らした。私もスコッチの味見をした。うまいスコッチだった。それはボトルを見た時から分かっていた。三十年物のバランタインなんて、めったにお目にかかれる酒ではなかった。

 壁に小さな風景画が飾ってあった。誰が描いたのか分からないが秋の情景だった。木の葉は赤く燃え、沼の水は冷たく透き通り、空は高く青かった。

 私は淳一に目をやった。彼のグラスの水割りは、すでに半分以上なくなっていた。私がここに来る前にも飲んでいたらしいが、彼のペースは早かった。スコッチを味わうというより、流し込んでいるという感じだ。父親の静斎も酒が強いので彼も強いのだろうが、彼の飲み方は何かを忘れようとして必死に飲んでいるように思えた。

「お母さんはなぜ、毎月、お墓参りをしてるんですか?」

「さあ。多分、習慣になってしまったんでしょう」

「紀子さんのお母さんのお墓と、いつも話をしていたそうです」

「母は紀子をとても可愛がっています。自分の子供以上にです。紀子を立派な音楽家にするのが母の夢なんです‥‥‥どうやら、その夢は実現したようです。大したもんですよ、あいつは‥‥‥紀子の本当の母親も喜んでる事でしょう」

 彼はパイプをくわえて、マッチで火を点けた。煙と共に甘い香りが漂って来た。彼は慣れた手付きでパイプをくわえていた。目を半ば閉じ、物思いにふけっているように見えた。

「静斎さんはお母さんが自殺するかもしれないと言って心配しています」

「自殺?」と彼は言って、驚いたように目を開いた。私をチラッと見てから、パイプの中を見つめた。感情を押さえているようだった。パイプを詰める金具に手を伸ばし、それをパイプの中に入れて押した。パイプを口にくわえて煙を吐き出し、その煙越しに私の顔を見た。すでに、その顔には驚きの表情はなかった。

「どうして、母が自殺なんかするんです?」

 彼は落ち着いた声で聞いた。

「私には分かりません。しかし、理由はあるはずです。何か心当たりはありませんか?」

「そんな馬鹿な、母が自殺するなんて考えられませんね」

 決め付けるように言って、水割りを流し込んだ。

「自殺するなんて、絶対に信じられません」

 空になったグラスを見つめたまま、もう一度言った。

「それよりも、私があなたに聞きたいのは先週の月曜の事です。ここに紀子さんが来ましたね?」

 彼の左手、パイプをつかんでいる指に力が入った。そして、ゆっくりと左手を口の所に持って行きパイプをふかした。

「誰が言ったんです?」と静かな声で聞いた。

「あなたのお母さんですよ」

「そうですか‥‥‥」

 彼は椅子の背にもたれて私の方を見た。その目は静かに落ち着いていたが、私の視線は避けていた。

「確かに、紀子は来ました。でも、すぐ、帰りましたよ。母は何と言ってました?」

「紀子さんが上原さんに乱暴されそうになったと言っていました。詳しく話してくれませんか?」

「ええ」と彼は言って、暖炉の火を見つめた。

「紀子は何の前触れもなく、やって来たんです。その時、上原君が一人でここにいました。その日は天気がよかったので、私も朝からスキーに行っていました。でも、仕事の事が気になって‥‥‥よくあるんですよ。パッとひらめいた時に書いておかないと、後で忘れてしまう事があるんです。それで、私は昼頃、帰って来ました‥‥‥その時、上原君は紀子の首を絞めていたんです。私は慌てて二人を離しました。紀子は気を失っていましたが大丈夫でした。もう少し、私の帰るのが遅かったら、紀子は‥‥‥紀子は、もう少しで殺される所だったんです」

 彼はパイプを持ったまま暖炉を見ていた。

「なぜ、そんな事になったんですか?」

「分かりません‥‥‥上原君は前から紀子の事が好きなようでした。でも、紀子は全然、相手にしなかったようです‥‥‥何か、紀子に言われてカッとなったんじゃないですか。紀子は時々、人を傷つけるような事を平気で言う事があります。言った本人はケロッとしていて、一々、覚えてないんですが、上原君みたいなタイプは案外、そういう事を根に持つんですよ。今までに、そういう事が何回かあったようだから、それが、とうとう、爆発したんじゃないですか‥‥‥よく分かりませんね」

 彼は暖炉の火を見つめたまま低い声で喋っていた。

 私の体はやっと暖まって、人間らしくなって来た。手の指も足の指もちゃんと生き返ったようだった。

 彼は煙を吐くとパイプをテーブルに置いて、空のグラスにスコッチを入れて水割りを作った。

「上原君は何て言ってました?」

「理由らしきものは何も言いません。ただ、謝ってました。そんな事をする気は全然なかったと言ってました。ただ、カッと来て、気がついたら紀子の首を絞めていたと‥‥‥」

「あなたのお母さんも帰って来たのですか?」

「ええ、母は‥‥‥母は私が二人を離してから帰って来ました。母が紀子の介抱をしたんです。紀子はすぐに気がつきました。上原君は帰らせました。もう二度とうちには近づくなと言ってやりました‥‥‥それから、紀子は母としばらく話をしてたようですが、紀子も帰って行きました」

「上原君は今、どこにいるんでしょう?」

 彼はパイプをくわえながら、チラッと私の方を見たが何も言わなかった。

 音楽が止まった。カセットがカチッという音を立て、静かになった。暖炉の中の火が弾ける音がした。

「私は彼のアパートに行ってみましたが、留守のようでした」

「上原君はヨーロッパですよ。電話がありました。彼が帰る支度をしている時でした。仕事の電話だったらしく、しばらく、ヨーロッパに行くと言って帰って行きました」

「どこからの電話か分かりませんか?」

「さあ、分かりません。彼はフリーのカメラマンです。別に決まった会社と契約してるわけではないと思います。彼の仕事の事はあまりよく知りません。でも、結構、うまくやってるようです」

 彼はゆっくりと視線を暖炉からテーブルに移した。その視線はグラスの上に止まったが、手は伸ばさなかった。

「上原君の専門は風景らしいですけどヌードも撮りますよね?」

 彼は顔を上げて私を見ると笑った。なぜか、嬉しそうだった。

「この間、ヌード写真集を出したらしいですね。あれは古山さんの趣味なんですよ。古山さんがヘアヌードなら出してやるって言ったんです。風景よりもヘアヌードの方が商売になりますからね」

「古山さんの所で出版したんですか?」

 淳一はうなづいた。

「彼は写真をやる前は絵をやっていました。風景画です。絵で充分に表現できない物を写真で表現しようとしたんでしょう。結構、いい写真を撮りますよ」

 彼は水割りを飲んだ。流し込むようではなく、ほんの少し、なめただけだった。

「上原君は車で帰ったんですか?」

「そうです」

「上原君は確か、その日、膝を怪我していたようですけど大丈夫だったんですか?」

「大した事なかったんじゃないですか」

「上原君が帰ってから、あなたはどうしました?」

「ちょっと、新潟の方まで行って来ましたよ。仕事です。ちょっと調べたい事があったもんですから」

 彼は面倒臭そうに言って、水割りを飲んだ。

 私はポケットからタバコを取り出して火を点けた。煙を吐いてから、

「あなたは上原君にゆすられていませんでしたか?」と聞いた。

「えっ」と彼は顔を上げた。微かに笑って、首を振ると、

「そんな事はありませんよ」と否定した。

 嘘をついているのか、本当なのか、彼の顔付きからは分からなかった。

「東山という男を知ってますか?」

「えっ」と彼はもう一度、言った。今度は笑わなかった。

「誰です? そんな人、知りませんよ」

 彼は眉を寄せて私を見ていた。説明を求めているようだった。本当に知らないのかもしれない。

「東山という男は上原君と組んで、ゆすりをやっていたようです」

「まさか、上原君がそんな事を‥‥‥」

「私はある人から頼まれて、東山を捜しています。すると、東山と上原君とのつながりが出て来たのです」

「そんな‥‥‥私には信じられません。上原君がそんな事を‥‥‥」

「今の所、上原君がゆすりをしていたかどうかは分かりません。ただ、東山は上原君が撮ったと思われる写真を使って、ゆすりをしているようです」

「そうなんですか‥‥‥確かに、彼は金回りがよかった。写真を始めてから、まだ三年余りしか経ってないのにおかしいとは思ってました。そんな事をしてたんですか。その東山というのは何者なんです?」

「分かりません。雑誌記者を名乗ってますが、嘘のようです。上原君から東山という名を聞いた事はありませんか?」

 淳一は首を振ると立ち上がった。

 ステレオの所に行き、カセットを取り換えた。また、ジャズが流れ出した。彼は注意深く、部屋の中を見回してから、また、元の所に戻って座った。パイプの中を覗き、中の燃えかすを灰皿の中に捨てると、金具でパイプの中を綺麗にしていた。

 私はスコッチをなめた。最高の味だった。私は突然、古山靖の事を思い出した。彼は一緒に酒を飲む相手がいなかったとぼやいていた。古山がいた時、淳一は酒を飲まなかったのだろうか? 今の飲みっぷりなら、古山は大喜びするはずだが‥‥‥

「母が自殺するというのは本当なんでしょうか?」と彼が心配そうに尋ねた。

「静斎さんは、そう思ってるようです‥‥‥私にはあなた方の家庭の事はよく分かりません。私は金曜日にお母さんに会いましたが、自殺する様子なんか、まったく、ありませんでした。これからはのんびり暮らすんだと幸せそうに言っていました。土曜日には隆二君も七年振りに帰って来ましたし‥‥‥ところで、紀子さんはなぜ、ここに来たんです?」

「知りませんよ。何か、母に話でもあったんじゃないですか‥‥‥それとも、ただ、雪を見に来たのかもしれない。紀子のやる事なんて分かりゃしませんよ」

 彼は微笑した。頼りない微笑だった。

「あなたは流斎さんとお母さんが村を出た理由というのを知ってますか?」

「何ですって?」

 彼は急に甲高い声を出した。

「そんな古い事、知ってるわけないでしょう‥‥‥それが、今度の母の事と何か関係でもあるんですか?」

「分かりません。私には何も分からないんですよ。紀子さんは本当のお母さんを殺した犯人について、今のお母さんに何かを聞きに来たんだと思います。しかし、お母さんは犯人の事は知らないそうです。そして、紀子さんは金沢に行きました。金沢は紀子さんの本当のお母さんの故郷だそうです‥‥‥あなたのお母さんは紀子さんがここに来た事を隠していました。多分、紀子さんが上原君に乱暴された事を内緒にしておきたかったんでしょう。お陰で静斎さんは紀子さんの事を心配して、私は紀子さんを捜し回りました。色んな人から紀子さんの事を聞いて回りました。分かった事は紀子さんの本当のお母さんが二十年前に殺されて、犯人は捕まらなかった事。その紀子さんのお母さんの死に流斎さんとあなたのお母さんが村を出た理由が関係あるかもしれない事です。二人が村を出た理由というのが分かりません。何か秘密めいた事があるらしいのです。静斎さんは隆二さんが生まれた頃、凄く荒れたそうですね。うちにも帰らないで、毎日、酒ばかり飲んでいたそうです。なぜ、そんなに荒れてたのか、理由が分かりません。隆二さんもそうです。彼も大学を中退して酒ばかり飲んでいたそうです。これも理由が分かりません‥‥‥あなたは隆二さんがうちを飛び出した理由を御存じですか?」

「いえ、分かりません。急に、うちに寄りつかなくなりました。あの時はほんとにひどいものでした。金を無断でうちから持ち出しては酒ばかり飲んでました‥‥‥母は毎日、泣いてましたよ。父は放っとけと言って、何もしませんでした‥‥‥私の手にはとても負えませんでした。そのうち、うちには全然、帰らなくなり、父の言う通りに放っておいたんです‥‥‥悪い連中と付き合ってたようでした」

 彼はパイプの中に新しいタバコを詰めていた。

「母が可哀想でした」と彼は独り言のように呟いた。

「父は好き勝手な事ばかりしてました。私が高二になるまで、父はまともにうちにいた事がなかったんです‥‥‥それでも母は父の事を責めたりしませんでした。私は父が許せませんでした。どうしても許せなかったんです。私は父が帰って来ても口もききませんでした‥‥‥母は父と私の間に立って、随分、辛かったろうと思います‥‥‥母が自殺なんかするはずがありません。母は今までに随分と辛い目に会って来てます。それでも負けずに生きて来たんです。その母が何で今頃になって死ななければならないんです? 母がそんな事をするはずがありません」

 彼はパイプをくわえるとマッチで火を点けた。煙が広がった。

 私はタバコを灰皿で消して、スコッチを飲んだ。賑やかなジャズが流れていた。

 彼は何かを隠していた。女がいる事を隠している。他にも何かを隠している。

 私はジャズを聴きながら何かを待っていた。淳一がアルコールの力で忘れようとしている事を、アルコールの力で全部、吐き出してしまう事を‥‥‥淳一が隠している女が何かの拍子にひょっこり現れる事を‥‥‥夜はまだまだ長い。何かが起こるような気がした。

 淳一は平和そうにソファーにもたれ、パイプをふかしていた。何かを考えているようにも見えるが、そう見せるためのポーズなのかもしれなかった。

「日向さん。今晩は泊まって行きますか?」と淳一は聞いた。

「はい。できれば、お願いしたいのですが」

 淳一はうなづいた。

「広いですから構いませんよ」

「すみません、突然、来たりして」

 私は頭を下げた。

「ちょっと、待ってて下さい」と彼は立ち上がった。

「部屋を暖めて来ます」

 彼はパイプをくわえたまま、落ち着いた態度で部屋から出て行った。その姿は、まさしく、作家と言ってよかった。

 彼が部屋を出て行くと同時に、突然、電話のベルが鳴った。電話のベルはいつも突然、鳴るものなのだが、私はビクッとした。彼が戻って来て、

「どうせ、仕事の電話です。二階で取りますから」と言った。

 しばらくして、電話のベルは鳴りやんだ。

 私は立ち上がり、隣の部屋を覗いて見た。広いダイニングとその向こうにキッチンが見えた。ダイニングから廊下に出ると二階へ行く階段があった。しばらく階段の所に立って、話声が聞こえないかと思ったが何も聞こえなかった。階段の側にトイレがあったので借りる事にした。

 私は居間に戻って淳一の帰りを待った。彼はなかなか降りて来なかった。私が急に泊まる事になったので、彼女と色々と相談しているのだろう。私はスコッチの瓶を手に取って眺めた。こんな酒を平然とした顔で飲んでいるなんて、大した作家だ。ただ、水で薄めて飲む酒ではない。三十年も生きて来た酒に敬意を払わなければならない。私は敬意を払って二杯目を頂戴し、グラスを持って窓際に行くと外を眺めた。また、雪がちらついていた。ジープが雪の降る中、寒そうに止まっていた。

 ステレオからは陽気で愉快な曲が流れている。ニュー・オリンズのフレンチ・クォーターで週末になると、道端で楽師たちが道行く人たちと一緒になって楽しくやっているような曲だった。平野雅彦もあんな風に仲間と楽しくやっていたのだろう。彼がまた、アメリカに行きたくなったという気持ちも分かるような気がした。ステージに立ってプレイするだけが音楽じゃない。色んな人たちと知らない連中たちと一緒になって、煩(わずら)わしい事などすっかり忘れて、楽しくやるのが本当の音楽なんだろう。

 ふと、人の気配を感じ、振り返ると、淳一がサイドボードに手を付いて立っていた。まるで、幽霊のように真っ青な顔をしていた。

「どうしたんですか?」と私は聞いた。

 淳一は私の顔を見たが何も言わず、気が抜けたように歩くとソファーに腰を落とした。魂を二階に置いて来てしまったようだった。 私もソファーに戻った。淳一はしばらく、姿勢を正して呆然としていたが、目の前の水割りが目に入ると、慌ててグラスをつかみ、口の中に流し込んだ。彼はむせて咳をした。荒い呼吸をしていた。彼の呼吸が落ち着いた頃、私はもう一度、

「どうしたんですか?」と尋ねた。

 彼は私を見つめていたが焦点は定まらず、どこを見ているのか分からなかった。

「母が‥‥‥母が‥‥‥母が‥‥‥」

 壊れたレコードのように口をパクパクさせながら同じ事を繰り返していた。

「どうしたんです?」と私は身を乗り出した。

「母が死にました」

 彼はやっとの思いで、それだけを言った。

「ほんとですか?」

 彼はうなづいた。うなづくだけだった。

 私は彼のグラスにスコッチと水を入れ、彼の手に持たせた。

「ゆっくり、飲んで下さい」

 彼はゆっくりと水割りを飲んだ。

「詳しく話して下さい」

「今、ひろみから‥‥‥電話で、母が‥‥‥母が自殺したと‥‥‥」

 彼はまた黙ってしまった。グラスを両手でつかみ、焦点の定まらない目で何かを見つめていた。彼から聞き出すのは無理のようだった。

 私は立ち上がり、窓際に行くと静斎宅に電話を入れた。電話の向こうから、ひろみの声が聞こえて来た。いつもの陽気さはなかった。

「大変なのよ。お母さん、やっぱり、自殺しちゃったみたいよ」

 ひろみは慌てて喋った。

「詳しく話して下さい」

「ええ‥‥‥ハンドバッグが見つかったの。お母さんのハンドバッグよ」

「どこで?」

「お母さんが死んだ所よ。そこにハンドバッグだけ置いてあったの。中に結婚指輪と一枚の紙が入っていて、『長い間、どうもありがとうございました』って書いてあったそうよ。お母さん、やっぱり、死んじゃったのよ」

「どこです、死んだ場所は?」

「流斎さんが死んだ所らしいわ」

 声が少しかすれていた。

「海ですか?」

「そう‥‥‥」

「死体は見つかりました?」

「死体ですって‥‥‥そんな‥‥‥まだ、見つかってないわ」

「静斎さんは?」

「今、帰って来たとこよ。アトリエに籠もってるわ」

「警察には届けました?」

「ええ、届けたわ‥‥‥明日、捜すらしいわ。でも、お母さん、どうして、自殺するの?」

「すぐ、帰ります」

「あなた、今、どこにいるの?」

「山荘です」

「あたし、今、そっちに電話したんだけど」

「ええ、知ってます。旦那さんを連れて帰ります」

「うちの人、大丈夫?」

「大丈夫です」

「うちの人、お願いね」

「ええ、すぐ、帰ります」

 私はしばらく、携帯電話を持ったまま、そこに立っていた。ジープが白くなっていた。暖かい山小屋の中で、のんびり、酒を飲んでいる場合ではなかった。氷の世界に飛び出さなければならなかった。今度の車検が来たら、今度こそ、屋根のちゃんとある車に替えようと決心を固めた。

 振り返ると陽気な音楽が流れていた。トランペットが浮かれていた。クラリネットが浮かれていた。ドラムスが浮かれていた。バンジョーが浮かれていた。ピアノも浮かれていた。しかし、私にはみんなが泣きながら演奏しているように思えた。

 淳一は両肘をテーブルに突き、身をかがめて、相変わらず、グラスを両手で包んでいた。グラスの中は空になっていた。

 私は元の場所に戻った。

 淳一はゆっくりと顔を上げ、また、ゆっくりと顔を下げた。

 私はタバコの火を点けた。味は分からなかった。何もかも分からなかった。

 淳一は片手を伸ばして、スコッチのボトルをつかんだ。つかみそこなってボトルは倒れた。倒れた音が部屋中に響いた。ボトルからスコッチがこぼれた。彼はボトルをつかみ直すと、テーブルの下からティッシュを取り出し、こぼれたスコッチを拭き取った。そして、改めて、自分のグラスにスコッチを注いだ。ボトルの蓋をしっかり閉めてから、グラスをつかみ、ゆっくりと一口なめた。水は入れなかった。その飲み方には賛成だが、今の彼には無理だった。私は水を加えてやった。

 彼の顔は歪んでいた。目は渇いて赤くなっていた。彼は左手で顔を上から撫で、目を強く押して、顎の下で握りしめた。その手を力なくテーブルに置き、テーブルの上を見回した。パイプを捜しているようだったが、パイプはなかった。二階に忘れて来たらしい。彼は何か言いかけたが言葉にならず、また、スコッチを飲んだ。

「母は僕を庇って死んだんです」

 彼は囁くような声で言った。

「僕はもう駄目だ‥‥‥今度こそ、素晴らしいのが書けそうだったのに‥‥‥もう駄目です。もう、おしまいだ‥‥‥」

「何があったのです? 話して下さい」

 淳一は私を見つめた。彼の顔の上を十年の長い歳月が一瞬のうちに通り過ぎて行ったかのようだった。今にも壊れそうな頼りない表情をしていた。

「もう少し早く帰って来れば、こんな事にならなかったんです。そうです。もう少し早く帰って来てたら‥‥‥僕が帰って来た時、紀子は知らない男に首を絞められていたんです」

「知らない男?」

「そう思ったんです。紀子はもう、ぐったりしてました。僕はもう、紀子が殺されてしまったと思いました‥‥‥僕はすぐに二人の所に掛け寄りました。そして、二人を離そうとしたんです‥‥‥でも、その男は離しません‥‥‥気違いのように、わけの分からない事をわめきながら紀子の首を絞め続けました‥‥‥僕は近くにあった置物で、その男の頭を殴ってしまったんです。鈍い音がして、男は倒れました。僕は呆然として、そこに立ったままでした‥‥‥二人は身動きもせず倒れていました。男の頭から血が流れて、床を赤く染めて行きました。そこです。そこが、そこが真っ赤になったんです」

 淳一はテレビの前あたりを指差していた。そう言われてみると血の跡のような染みがあったが、言われなければ分からない程、目立たなかった。

「その男が上原君だったんですか?」

 淳一はうなづいた。

「どうして、分からなかったんです?」

「僕は知らなかったんです。彼が、かつらを付けてたなんて」

「かつら?」

「そうです。上原君はかつらを付けてたんです。かつらを取ると後ろの方まで、はげてるんです。いつも、格好を気にしてる上原君が、はげだったなんて思いもよらない事でした」

「上原君は、はげでしたか‥‥‥」

 淳一はうなづいた。

「僕は知らない中年男が紀子を襲ってると思ったんです」

「それから、どうしたんですか?」

「僕はどうしたらいいのか分からず、ただ、二人を見ていただけです。どの位、そのままでいたのか分かりません‥‥‥頭が混乱してました。何かをしなければならないと思ってましたが、体が言う事を聞きませんでした‥‥‥そこに、母が帰って来たんです。僕は母に説明しました。二人共、死んだと思ってたんです‥‥‥紀子は気絶していただけでした。上原君は死んでました‥‥‥僕が殺したんです。この手で、人を殺してしまったんです‥‥‥この手で‥‥‥」

「お母さんは上原君が、はげだった事を知ってたんですか?」

「いえ、知りません。母も誰だか分からなかったんです。でも、かつらが見つかって‥‥‥きっと、紀子が取ったんでしょう。それで、上原君はカッとなって‥‥‥」

「彼の死体はどうしたんです?」

「母と相談しました‥‥‥僕は上原君を彼の車のトランクに詰めました。僕は彼の車に乗って東京に向かいました‥‥‥死体はどこかの山奥に捨てました。どこだか分かりません。途中で脇道に入って、どんどん山奥に入って、人気のない所に投げ捨てて、雪をかぶせて分からないようにしました‥‥‥そして、車は彼のアパートに置いて、うちに帰りました。うちには誰もいませんでした‥‥‥東京で知り合いにも会わなかったので、新潟に行ったという事にしたんです。そして、次の日、電車で帰って来ました」

 彼は両手を力なく垂らし、ソファーの中に沈んで、グラスをじっと見つめていた。

 私はスコッチで口の中を湿らした。長くなったタバコの灰がテーブルに落ちた。私は手に持っていたタバコを灰皿で消し、落ちた灰をうまく拾って灰皿の中に落とした。

「あなたは上原君のアパートに行った時、彼の部屋に行きましたね?」

 淳一はうなづいた。

「彼の部屋の中に車のキーを投げ込んだんですね?」

 淳一はうなづいた。

「その時、彼の部屋の中はどうでした?」

「メチャメチャでした。誰があんな事をしたんですか?」

「彼にゆすられていた者たちです。その時、部屋の明かりは点けましたか?」

「いいえ、鍵を投げ込んだだけです」

「部屋の鍵はどうしました?」

「上原君のを使いました」

「前にも上原君の部屋に行った事があるんですか?」

「ええ、何度か‥‥‥写真の現像を頼んだ事があります」

「そうですか‥‥‥上原君の鍵はどうしました?」

「捨てました‥‥‥僕はどうしたらいいんでしょう?」

「紀子さんは上原君が死んだ事を知ってるんですか?」

「いえ、知りません。気絶してました。母は東京に帰したと言ったそうです。紀子は何も知りません」

「私はあなたの言った事をすべて、信用する事はできません。もしかしたら、あなたがお母さんを庇ってるのかもしない」

「母じゃありません。母は関係ありません。すべて、僕がやった事です‥‥‥僕は一体、どうすればいいんだ‥‥‥」

「自分の事は自分で決めて下さい。やるべき事をやるだけです。作家として自分の心をごまかす事はできないでしょう。よく考える事です‥‥‥取り合えず、今、やる事は東京に帰る事です」

 彼はゆっくりとうなづいた。

「どうしますか? 私の車で帰りますか? それとも、自分の車で帰りますか?」

「自分ので帰ります」

「そうですか‥‥‥馬鹿な考えは起こさないで下さい。あなたのお母さんは昨日、お墓参りをした帰り、いつも寄る駄菓子屋のお婆さんに、あなたの事が心配だと言ったそうです‥‥‥私は帰ります。失礼しました」

 私は立ち上がった。

 彼は玄関まで送って来た。

「なるたけ、早く帰ります」

 彼は力のない声で言った。

「私はここに来なかった事にしておいた方がよさそうですね」

 私はジープに乗り、雪のちらつく中を走り去った。途中で山荘の方を振り返ると、山荘の後ろの山ではナイタースキーをやっていた。


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