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30.アトリエの中の父と息子と母親の笑顔 [蒼ざめた微笑]

ジョン・コルトレーン / バラード


 すべてが平和な眠りについていた。

 誰もが夢の世界に遊んでいた。午前一時を過ぎていた。こんな夜は一人静かにコルトレーンを聴きながら、朝まで酒を飲んでいたかった。

 寝静まった真っ暗な家々の中で、静斎の屋敷だけがスポットライトを浴びたように浮かび上がっていた。

 ひろみが中に入れてくれた。目は赤く、顔は青白く、やつれていた。

「隆二さん、いらっしゃい」とひろみは低い声で言った。

「姉さん、お邪魔します」と隆二も低い声で言った。

「親父はいますか?」

 ひろみはうなづいた。

アトリエにいます」

 隆二はワークブーツを脱ぎ、スリッパを履くとアトリエの方に向かった。

 ひろみはそれをぼんやり眺めていた。

「静斎さんは大丈夫ですか?」と私は聞いた。

 ひろみはゆっくりと私の方を向いた。立っているのが、やっとのようだった。

「ええ、大丈夫みたい」

「あなたは大丈夫ですか?」

 ひろみはかすかに微笑した。強がっている微笑だった。今にも泣き出しそうな頼りない微笑だった。

「旦那さんは帰って来ましたか?」

 ひろみは首を振った。

「一緒に帰って来るんじゃなかったの?」

「かなり、ショックだったようです。俺が行った時も酒を飲んでましたが、知らせを聞いてからはガブ飲みです。冷静になってから、帰って来た方がいいだろうと思ったので置いてきました」

「そう‥‥‥うちの人、ずっと、お酒を飲んでたの?」

「はい、かなり飲んでました」

「何があったの? あの人、普段、あまり、お酒は飲まないのよ」

「シナリオが行き詰まってるのかもしれません」

「そうね。かもしれないわね。美喜ちゃんはいたの?」

 私はうなづいた。

 ひろみはまた笑おうとしていたが、口元が引きつっただけだった。

 私は隆二の後を追ってアトリエに向かった。ひろみの方を見ると玄関の所に気が抜けたように立っていた。

「ひろみさん」と私は声を掛けた。

 ひろみはビクッとして、私の方を向いた。

「すみませんけど、何か、食べる物、ありませんか?‥‥‥まだ、夕飯前なんです」

「お父さんもまだよ。あたしもまだだわ。紀子さんもまだだわ」

「紀子さんが帰って来たんですか?」

「ええ。七時頃だったかしら。おみやげを抱えて帰って来たわ。その後、お父さんが帰って来て、お母さんの事を知らせたの‥‥‥紀子さん、大声で泣きながら二階に行ったわ」

「そうですか‥‥‥帰って来ましたか‥‥‥」

「御飯の用意するわ‥‥‥何かやってないとやりきれない」

 ひろみは台所の方に静かに歩いて行った。

 アトリエのドアを開けると、

「これは、お袋だろ?」という隆二の声が聞こえて来た。

「ああ」と静斎が言った。

 私はアトリエの入口に立っていた。

 静斎はキャンバスに向かって立っていた。

 隆二は静斎が絵を描いているのを横に立って見ていた。

 アトリエは明るかった。壁には静斎の古い作品が何枚も掛けてあった。暗い感じの絵が多かった。暗い感じの抽象画や幻想的な絵の中に一つだけ、やけに明るい絵が浮き上がっていた。

 暖かそうな春の光の中で、三人の子供たちが笑いながら遊んでいる。紀子らしい女の子が頭に黄色い花を付けて両手を広げて笑っている。隆二らしい男の子は右手にバットを持って、左手で何かを指差しながら笑っている。淳一らしい男の子はバスケットボールを持って、隆二が指差す方を見ながら笑っている。三人共、幸せそうだった。三人の子供たちを見ていた静斎も幸せそうに笑っていたのだろう。静斎の後ろには静斎夫人が幸せそうに、みんなを見守っていたのだろう。親子五人がちゃんと揃って、みんなで笑う事ができたのは、この頃だけだったのかもしれない。

 地塗りをしただけのキャンバスも何枚か、立て掛けてあった。ここには静斎の歴史があった。数々の作品がここから生まれ出た。

「この絵、俺は覚えてるよ」と隆二が言った。

「俺が中学の頃、親父がお袋を描いてた奴じゃないか」

「そうさ」と静斎が言った。

「あの時は途中でやめちまったんじゃ。母さんの顔はどうも難しくてな。色んな顔を持っとるんじゃよ。その日によって、いつも、違う顔をしていた。わしにはどうしても描けなかったんじゃ‥‥‥しかし、今なら描ける。あいつの顔はたった一つじゃ。わしの目には、ようやく、それが分かったんじゃ。今、はっきりと母さんの顔が見える」

 隆二は何も言わずに父親を見ていた。

「隆二」と父親は言った。

「お前には母さんの本当の顔が見えるか?」

「うん」と息子は頼りない返事をした。

 父親は息子の顔を見つめた。

「分かるよ」と息子は、はっきりと答えた。

「俺にはお袋の本当の顔がよく見える」

 父親はうなづいて、息子を見つめた。

「うん‥‥‥分かればいいんじゃ。お前も大分、苦労したらしいな。母さんもお前が帰って来て喜んでいた」

 静斎はまた、キャンバスに向かって筆を動かし始めた。隆二はそれを見つめていた。

 私はそこから離れた。私が割り込む隙間はなかった。父親がいた。息子がいた。そして、二人を優しく見守っている妻と母親を兼ねた一人の女の穏やかな笑顔があった。

 ひろみはエプロン姿で、厨房のような広い台所で料理を作っていた。私の顔を見ると、「もう少し、待って」と言った。

 私は台所の隣にあるダイニングに行って、腰を下ろした。

「あたし、何でもお母さんに教わったわ。何でもよ‥‥‥あたし、このうちに来た時、何も知らなかったの。お母さんが全部、教えてくれた。いいお母さんだったわ。お母さんというより、お友達のようだったわ。いつも、のんびりしていて子供みたいな所もあった‥‥‥でも、実際は、のんびりなんてしてないのよ。いつも何かをやってるくせに、のんきそうに見えたわ‥‥‥お母さん、お裁縫も上手だった。前に、洋服のデザインをやってたらしいけど、とても、素敵な服を作ってたわ。あたしの服も作ってくれた。このセーター、お母さんに教わって、あたしが作ったのよ‥‥‥決して、人の事を疑ったりしなかったわ。騙されたと分かっていても、まだ、信じていた‥‥‥いいお母さんだったのに‥‥‥お母さん、なぜ、死んだの?」

 ひろみは野菜を切りながら泣いていた。

「ごめんなさい。あなたも疲れたでしょう」

 ひろみを慰めようと思った。しかし、気の利いたセリフは思いつかなかった。

「あっ、そうだ。荒木さんが来てるのよ。あなた、会ったんでしょ?」

「そうか、忘れてた。どこにいるんだ?」

「お母さんのお部屋よ。こたつに入って、お酒を飲んでるわ」

「ちょっと、会って来る」

 私がホールの方に行こうとすると、ひろみは台所の正面のドアを示した。

「そこから行った方が近いわ」

 ドアを開けると和室になっていた。次の部屋の左側の部屋に荒木俊斎はいた。テレビを見ながら日本酒を飲んでいた。

 俊斎は私の顔を見ると軽く頭を下げ、

「とんだ事になりましたなあ」と言った。

 私はうなづくと、こたつに入った。

 ひろみがやって来て、グラスと箸を置いて行った。俊斎がグラスに一升瓶から酒を注いでくれた。

「いただきます」と言って私は酒を飲んだ。

 冷たい酒がはらわたに染み渡って行った。

「隆二さんを連れて帰りました」

「そうですか」

 俊斎はテレビを見ていた。テレビでは古い日本映画をやっていた。私は俊斎のグラスに酒を注いだ。

「隆二さんから聞きました。荒木さんは流斎さんと奥さんが村を出た真相を知っていたんですね?」

 俊斎は私の方を向いてうなづいた。

「それが、今回の奥さんの事と関係あると言うのですか?」

「はい。関係ありそうです」

「まさか、そんな昔の事が‥‥‥」

 俊斎はタバコをくわえると百円ライターで火を点けた。

「流斎さんが自殺する前、紀子さんのお母さんが、その事で流斎さんを脅していましたよね。その頃、荒木さんは真相を知っていたんですか?」

「知っていました。わたしは昭子さんに本当の事を教えてやりました。昭子さんも分かってくれました。分かってくれたと思ってたんです。しかし、昭子さんはお金に困る度に、流斎君からお金を受け取っていたようです」

「昭子さんも誰かにゆすられていたのですか?」

 俊斎はうなづいた。

「昭子さんは今の幸せを守るのに必死でした。静斎さんと出会う前の彼女は相当、辛い目に会って来たんでしょう。何度も人に裏切られて来たんでしょう。静斎さんと出会って自分の店まで持つ事ができても、いつも、この幸せも長くは続かないだろうと怯えていたのかもしれません。ヤクザ者に脅されて、静斎さんには言う事ができず、流斎君を頼ったんでしょう。そして、流斎君も村を追い出された噂には責任を感じていたんでしょう」

「奥さんは、静斎さんの奥さんですけど、流斎さんが昭子さんにゆすられていたという事を知っていたのですか?」

「さあ、どうでしょう。あの頃、静斎さんは昭子さんと暮らしていたので、奥さんは流斎君に色々と相談はしていましたが‥‥‥知っていたかもしれませんね‥‥‥」

 テレビでは若き日の石原裕次郎が歌を歌っていた。

「久江さんが昭子さんを‥‥‥」と言いながら、俊斎が私の顔を見つめていた。

「真相は分かりません。しかし、そうでなければ、自殺をする理由が分かりません」

 俊斎は酒を飲んだ。テレビを見つめたまま、何も言わなかった。

 二階からピアノが聞こえて来た。

 『レクイエム・蒼ざめた微笑』だった。

 私はホールに出て二階を見上げた。ひろみも出て来て二階を見上げた。ひろみは私の側までやって来た。何かを言いたそうな顔をしたが、何も言わなかった。

 静斎と隆二もアトリエから出て来て、二階を見上げた。

 紀子はピアノを引き続けていた。きっと、涙を流しながら弾いているのだろう。

 私の目頭は熱くなって来ていた。

 ひろみは私の横で泣いていた。

 俊斎も出て来て、二階を見上げていた。

 誰もが紀子の奏でる二人の母親への鎮魂曲(レクイエム)に耳を澄ましていた。


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